2019 年10 月、旭化成株式会社名誉フェロー吉野 彰 博士がノーベル化学賞を受賞。
この表彰は、いまや生活に欠かせない存在となったリチウムイオン電池(LIB)の基本原理を完成させた功績によるものでした。
同社の基盤技術研究所の主幹研究員 乙部 博英氏は、吉野博士のチームがLIB の実用化を進めるにあたって、それをサポートした一人です。
今回は、30 年近くにわたり旭化成の研究開発を支援してきた乙部氏のもとを訪れ、同社の製品開発に電子顕微鏡がどのような役割を果たしているのか、お話を伺いました。
旭化成株式会社
基盤技術研究所
技術部 主幹研究員
Expert
乙部 博英
LIB の研究は、1981 年に吉野博士が導電性高分子ポリアセチレンの研究を手がけたことに始まる。このポリアセチレンが二次電池の電極として使えることがわかり、特に負極に特化した研究が進められた。その後、1985 年に正極をコバルト酸リチウム(リチウムイオン含有金属酸化物)、負極をポリアセチレンから炭素材料に切り替えたことにより、LIB の基本構造が世界で初めて完成されたのである。
しかし、LIB の商品化までには、まだ多くの課題があった。なかでも最も重要視されたのは、発火などを防止するための安全対策だ。モバイルIT 機器だけでなく、エコカーなどのモビリティにも搭載されるからには、衝撃を受けた際などに、万一にも発火したり、爆発したりしないことが大前提となる。
セパレータは、LIB の正極と負極の間に位置し、リチウムイオンを透過させたりショートを防止したりする機能を持つ部材だ。旭化成はセパレータに厚さ20 μm以下のポリオレフィン微多孔質膜を使い、LIB が熱暴走を起こした場合には、セパレータが溶けることで微細孔を埋め、電池機能を停止させるヒューズ機能を持たせた。このセパレータを世界で最初に量産化し、デファクトスタンダードとして確立したのが同社だ。これはLIB の安全性を確保し、社会に受け入れられるための重要な技術であった。そして、セパレータの構造解析と評価に手腕を発揮したのが、乙部氏である。
「FIB-SEM(集束イオンビーム走査電子顕微鏡)でセパレータの3次元構造解析を行い、NMR でLi イオンの拡散性を計測しました。その結果を基にシミュレーションを行って、どのような構造が優れた電池特性を発揮するかを考察したことが、セパレータの開発では特に印象に残っています」と乙部氏は当時を振り返る。
イオンビームで多孔質をマルチスライスすることはできるが、SEM では奥行が見えてしまうために、断面の2次元画像が得られない。2次元2値化像が得られなければ、3 次元構造を再構築することはできない。そこで乙部氏たちは、多孔質の孔を樹脂で埋める前処理を施した。しかし、孔を埋めただけでは今度はコントラストが得られない。「何とかして完全な2次元2値化像を取得できないかと考え、思いついたのが電子染色でした。当社が保有していた電子染色のノウハウを応用したことが、あの仕事のポイントだったと思います」
こうして乙部氏たちのチームは、集束イオンビーム走査電子顕微鏡(FIB-SEM)を用いてスライスと観察を繰り返し、得られた大量のSEM 像を再構築することで、日本で初めてセパレータの3 次元構造を可視化することに成功したのだ。
その成果を名古屋で開催された電気化学会 電池討論会で発表したところ、講演終了後、乙部氏と名刺交換をするために、分析系の企業が列をなしたというエピソードからも、インパクトの大きさがうかがえる。
「それもこれも当社が30 ~ 40 年前から取り組んできた染色技術の蓄積があってのことです。他に先駆け、顕微鏡やNMR に力を入れてきたノウハウが代々受け継がれ、その上で新しい挑戦をするという繰り返しがあって、達成できた仕事だと考えています」と乙部氏は謙虚に語る。現在、同社は電池の安全性を大幅に向上させたセパレータとして湿式膜の「ハイポア」、乾式膜の「セルガード」を製造しているが、さらなる高エネルギー密度化を求めて、セパレータはより強く、より薄く、日々進化しているという。
乙部氏が旭化成に入社した1987 年は、日本電信電話株式会社(NTT)が携帯電話サービスを開始した年でもある。まさにモバイルの時代の始まりでもあったわけだ。「学生時代の研究テーマは光ディスクの高密度化で、研究室でレーザーを振り回していました」と言う乙部氏は、つまり本来物理と電子の人であった。
「理系を志望したのは、暗記する学習に非常に抵抗があったからです。旭化成にはシステムを作りたいと思って入社しました。化学のことはまったくわからず、上司から『化学の会社に入ったのだから構造式がわからないではすまされない。勉強しなさい』と言われたこともありました」
入社2年目、光ディスクの開発に携っているときに、評価の手段として初めて日立の電子顕微鏡S-430 形と出会い、その画像の魅力を知った。その後、基盤技術研究所の前身にあたる解析センターに異動し、SEM による解析業務を専門とするようになった。
「それからは楽しかったですねぇ。会社では毎日、自分がミクロの世界に飛び込んだような気持ちでした。それに、試料作りで手を抜けば偽りの姿が見えますが、正しい処理を施せば真の姿が見えてきます。この真の姿を開発者よりも先に見ることができる。その楽しさに、どんどんのめり込んでいきました」と当時を振り返る。
あのとき電子顕微鏡に出会っていなかったら今の自分はなかった、分析評価で電子顕微鏡と出会ったことが企業人としての転機だったと思う、とまで言う乙部氏は、その後、社内の開発者をサポートするとともに、電子顕微鏡の観察の新しい技法開発に打ち込んでいった。
「若いころは、いろいろな観察方法を開発しました。日立ハイテクの方と連名で学会発表した『イオン液体による湿潤試料の無乾燥SEM 観察』もその一つです」
SEM の試料室は高真空であり、湿潤試料を観察する際には、何らかの方法で乾燥させることが一般的だ。しかし、
どのような方法をとったとしても、乾燥による構造変化は必ず起きていて、水分を含んだ状態の構造を観察できているわけではなかった。
そこで乙部氏たちは、当時、大阪大学の桑畑教授らが研究を始めていたイオン液体に着目し、湿潤試料の水分をイオン液体に置換して高真空SEM で観察する手法を開発した。それによって湿潤・膨潤状態の構造を維持したままSEM で観察することが可能になったのだ。
「スーツの裏地などに使われる当社のベンベルグ®(素材名キュプラ)は、吸放湿性に優れた素材で、以前から、吸放湿時の構造変化を観察したいというニーズがありました。この手法を開発したことで、高真空のSEM でも吸湿した状態での観察が可能になりました」観察の結果、吸湿時にはベンベルグ® の繊維径が12%太くなることを確認できたという。
また、同社がコピー機用に製造している歯車は、自己潤滑性が高いポリアセタールという樹脂でできているが、この部品が使用中に帯電すると、コピーのトナーが付着してしまう。そのためカーボンブラックという導電助剤を添加して帯電を防ぐ技術がある。このカーボンブラックの分散状態が表面抵抗を左右するため、電子顕微鏡で観察、評価してほしいというニーズがあった。
従来、カーボンブラックの分布評価には、TEM を用いてきたが、TEM では成型した樹脂最表面の分布評価が難しいため、直接表面抵抗との関係を論じることができなかった。そこで、乙部氏はリターディング機構のあるSEM を利用して、リターディング電圧が樹脂成型片の表
面だけに印可できるように試料を作り込み、観察条件を最適化したところ、表面抵抗値の低下に寄与しているカーボンブラックだけを選択的に可視化することに成功し、表面抵抗値の違いを定量的に証明することが可能になった。
乙部氏はこうした取り組みについて、「今も若手と一緒に、今まで見えなかったモノの『観える化』に日々取り組んでいます。日立ハイテクのみなさんの協力を得て、可視化を実現した例もたくさんありました。イオン液体を使った湿潤試料の高分解能観察では、電子線照射によるダメージで観察が困難な時、ダメージ軽減の冷却観察をご提案いただき、10 nm 程度の微細構造まで評価することができました。それも日立ハイテクのみなさんのご協力がなければ実現しなかったでしょう。考えると、日立ハイテクさんには足を向けて寝られませんね」と笑う。
企業のエンジニアは利益を出してこそ認められる。それがアカデミアの研究者との違いかもしれない。乙部氏も「『観える化』に挑んではいますが、あくまでその目的は製品開発に結び付けることにあります」と語る。
「これまでもこれからも、観るのは開発者のクエスチョンに応えるためです。水分を含んだ試料を観ようと工夫したのも、樹脂の抵抗値を可視化しようと試みたのも、どれもみな開発者が困っていることを解決するためでした」
30年以上にわたって、電子顕微鏡の新しい観察技法を編み出し、技術開発に貢献してきた乙部氏にとって、現在所属する基盤技術研究所(基盤研)の役割はどのようなものなのだろうか。
「基盤研は従来、材料の分析とコンピュータシミュレーションの結果を提供することが主な仕事でしたが、現在スタッフにはことあるごとに『私たちが提供するのはソリューションだよ』と言っています。開発者が見たいというものを観て、測って、回答するだけでなく、開発者が困っていることは何なのかを訊き出し、それを解決するための解析手法をデザインし、開発者の収集した物性データと照らし合わせ、開発者と一緒に考えることによって問題可決を図っています。」
提供するのはデータではなくソリューション。そのため基盤技術研究所は、各開発チームと年間契約を結び、スタッフが毎月検討会議にも出席して、状況を把握するとともにアドバイスする体制もとっている。
「もちろん、チームの一員となって取り組むのは大変なのですが、開発者と一緒に苦しまなければ結果は出ません。最近は基盤研と組んだ仕事の評価が高まり、依頼が増えてきています」
ちなみに、吉野博士がノーベル賞を受賞したときのことを聞くと「第一報を聞いたのは会議を終えた後、同僚たちと足を運んだ居酒屋でした。仲間のスマホで速報を知り、やった!やった!と大騒ぎしていたら、お店の人にどうしたんですか?と理由を聞かれ、会社の仲間がノーベル賞を受賞したことを伝えました。そうしたらお祝いに、と一升瓶を差し入れてくれまして。吉野がノーベル賞を受賞したおかげで1 本余分に飲めました(笑)」。旭化成の社員の方々にとっても、待ちに待った受賞だったことがうかがえた。
最後に基盤研の将来について聞くと「今後はAI 技術やビッグデータにもとづくMI(マテリアルズインフォマティクス)を活用して、製品の3 次元構造と機能の相関がとれるパラメータを算出し、開発者が求めている理想の構造を提案することをめざしています。開発者はつねに高い機能を求めていますが、その機能とは何なのかを解析の立場から『これでしょう?』と提示する。さらに、そのモデルを3D プリンタで出力して手渡しできれば、なお良いと考えています」
技術開発のスピードアップや効率化に貢献するためには、これまで以上にデータサイエンスの比重が大きくなっていくと予想される。しかし、乙部氏は、データはあくまで数値だと言う。「以前に比べ、計算化学のファクターが大きくなっていることは確かですが、計算化学と実体を結び付けることで、はじめて提案が生きてくると思います。やはり実空間で正しく微細構造を観ることがなくなることは絶対にありません」と力強く語った。
(インタビュー・文:山口としなり)
編集後記
インタビューでは、何度も「顕微鏡は楽しい」という言葉を聞いた。誰も見られなかったものを観るために考え、試し、実現すれば自分が最初に観ることができる、そのよろこびの大きさは想像に難くない。今の課題は?と聞くと「求められるものが日々細かく小さくなっていくので四苦八苦していますが、10 nm を切るような分解能でポリマー材料のナノの世界の実像を3 次元画像再構築したい。電池に関していえば、動作環境で見るオペランド計測にも関心があります。正極と負極、セパレータ、電解液が入った状態でどうやって見るか」と、その知的探求心はとどまるところを知らないようだった。電子顕微鏡を使ったソリューションが、社会の変革を推し進める。乙部氏のチームの技術革新が、やがて人々の暮らしをより良くすることに期待したい。
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