- 生命科学の最前線 - 日経サイエンス 2018年1月号より転載
名古屋大学 大学院理学研究科
構造生物学研究センター
名誉教授
臼倉 治郎
2017年のノーベル化学賞は「クライオ電子顕微鏡」(クライオ電顕)を発明した欧米の研究者3人に贈られた。
クライオ(cryo)は低温を意味し、クライオ電顕は液体窒素並の低温下において溶液中の生体分子の構造を高解像度で観察可能にし、タンパク質の構造が把握できるようになった。
生体内では様々な生命活動を担うタンパク質が合成されているが、その詳細な構造が分かれば他の分子との結合状態や作用を探る手掛かりとなり、多様な生体反応の解明や治療薬開発に役立つと期待される。受賞理由では生化学の新しい時代の扉を開いたことが評価された。
名古屋大学名誉教授の臼倉治郎氏は、受賞者の1人であるリチャード・ヘンダーソン氏(英国MRC分子生物学研究所のプログラムリーダー)を以前から知っており、ノーベル賞受賞が決まった瞬間も英国の研究会に同席していた。
「30年前から多数の粒子を集めて平均化する画像処理を行う構造解析(単粒子解析)によって最終的に原子配置まで迫れると予測していた。ノーベル賞受賞は当然で遅すぎたくらいだ」と、手放しで功績を讃える。
共同受賞者であるジャック・デュボシェ氏(スイス・ローザンヌ大学の名誉教授)は液体窒素などを使って試料を急速に凍らせる手法(Cryo-electron microscopy of vitreous sections:CEMOVIS)を開発した。これにより非晶質に固定された状態の凍結切片をクライオ電顕で観察できるようになった。
またヨアヒム・フランク氏(米国コロンビア大学の教授)は、様々な方向から撮影した画像をコンピューターで重ね合わせて高解像度の立体画像を作る手法を開発した。
ヘンダーソン氏がクライオ電顕のレールを敷き、CEMOVISはその上に乗った将来性の高い手法である。臼倉氏らもその応用に取り組んでおり、日立ハイテクとの共同開発によって、新たなクライオ電顕の開発に挑んでいる。
医学生物学分野においてクライオ電顕の必要性は急速に高まっている。生命現象を理解するためには細胞内で機能状態のタンパク質分子やその複合体の構造に加えて、それらが集合した空間構造(いかなる構造でどのような細胞内環境に位置するかという情報)を知る必要があるからだ。
現在のクライオ電顕の主な用途は、精製タンパク質、ウイルス、細胞内小器官(オルガネラ)などの単粒子解析である。
従来の負染色による単粒子解析法では前処理として染色が必要で染色剤による構造変化は完全に防げず、染色剤の浸透具合により像も変化するという欠点があった。クライオ電顕によれば精製タンパク質分子をそのまま急速凍結して電顕の分解能で観察できるので、生物試料であっても前処理が不要になる。また、その分解能も2 Åに迫っており、結晶のX線回折による構造解析のレベルに近づいている。
新鮮状態で観察できるのがクライオ電顕の最大の強みであり、欧米では導入が進んでいる。しかし、1台が数億円という費用は普及のための課題になっている。
開発中の次世代型クライオ電顕では、要素技術を絞り込み、低加速電圧の走査型透過電子顕微鏡(STEM)を実現し、大幅な小型化に成功している。
臼倉氏は「細胞の中にある状態のままの少数の分子について、その構造を容易に解析するための電顕開発を目ざした。原子分解能までなくても1 nm程度の分解能で、手軽に単粒子解析ができるようになれば医学生物学に大いに貢献できる」と語る。
2016年度からは日本医療研究開発機構(AMED)から医療分野研究成果展開事業(先端計測分析技術・機器開発プログラム)支援を受けており、着実に実用化への道のりを進めている。
図1 膜剥離標本のクライオ電顕像(無固定)
アクチン線維や微小管からなる細胞骨格に加え、粗面小胞体、滑面小胞体、リボソームなどが観察される。
技術革新の鍵は、STEM 機能を持たせた走査型電子顕微鏡(SEM)をベース機として機能を付加する形で開発したことだ。
SEMでは、細く絞った電子線を試料表面に上部から照射して走査し、2次電子線を検出して撮像する。
これに対してSTEMは、試料中を透過もしくは試料によって散乱した電子線を検出するものだ。その密度分布がそのまま画像になるので、コントラストを補正する必要がなくなる。正焦点での像も観察できるので分解能の低下も抑えられる。透過型電子顕微鏡(TEM)に比べ比較的少ない画像データで済むので、単粒子解析には有利である。
もう1つ、大きな違いは画像の記録法にある。TEMは画像を記録するためのカメラが必要だが、STEMでは電子を捉える検出器があればよいため、高感度なカメラを搭載してコストが膨らんでしまう問題を回避できる。検出器(シンチレーター)に塗布されている蛍光物質を質、量ともに改善することにより、1電子を捕捉できるような高感度化が実現できれば、はるかに安価に同等の像が得られるようになる。
次世代型クライオ電顕は立体的なSEM像と透過像(STEM像)が同時に得られるという大きなメリットがある。
試料中に電子線を透過させるためには、試料を薄片化しなくてはならない。しかし、加速電圧は約30 kVと非常に低加速ではあるが、細胞内構造で厚さが200 nm以上と推定される部分でも支障なく観察・計測できている。一方で低加速電圧が実現できたため、床の上に置けるコンパクトな設計が可能になった。SEMをベース機として開発しているため、現時点ではSEMに付随しているSTEM機能を用いているが、将来的にはSTEMを中心に設計して、それに高機能SEMを付帯させるのが望ましいと考えている。
また、クライオ電顕で通常の電顕の画質を維持するためには、冷却に伴うドリフト(温度変化などにより観察中の試料がゆっくり動いてしまうこと)が顕在化しないように、さらに走査速度を上げるという技術課題も克服しなくてはならない。
試料を最適な形で持ち込むことも重要であり、細胞膜の裏打ち構造(膜細胞骨格)を観察するための前処理装置として細胞膜剥離装置も同時に開発した。これにより次世代型クライオ電顕の性能を最大限に発揮でき、観察結果の信頼性を向上させられる。
図2 クライオSTEM(左)とクライオSEM(右)の同時記録(無固定)
完全に氷包埋されている時(最初)、SEM 像は氷で覆われているので平坦であるが、電子線照射よるダメージや温度上昇により氷の一部を昇華させると右図のように構造が現れる。
左から小瀬洋一、多持隆一郎、東淳三、丹波裕介(以上日立ハイテク)、臼倉英治、臼倉治郎、成田哲郎、松本友治(以上名古屋大学)の各氏。
後ろが次世代型クライオ電顕。
電顕の開発においては、その応用法と一体化させた戦略も重要になってくる。最終ゴールは装置としての性能ではなく、結果として何が見えるかであり、それを実現するために生物学者である臼倉氏が自ら電顕の開発に乗り出すことになったのだ。
幸い、機器開発と標本作製技術という両輪がうまく回転しており、次世代型クライオ電顕がベールを脱ぐ日は着実に近づいている。今後は解析のソフトウエアの開発も進むはずで、さらに効率化が期待される。
臼倉氏が、これを武器として取り組むのは病気の根本原因を解明して治療法の開発につなげることだ。分子レベル、さらには原子レベルで、病気になる過程が明らかになれば、真に有効な新薬開発が可能になる。
「対処療法的な薬効優先の創薬では副作用も不明確となり危険である。病気の成因やメカニズムを明らかにし、薬効の高い新薬の開発を目ざすべきである」
例えば、インフルエンザウイルスの細胞内への侵入、増殖、排出機構の形態学的解析などにも応用しており、手応えを感じている。
SI NEWSでは、臼倉先生に報文記事もご執筆いただきました。
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