~偏光ゼーマン原子吸光光度計1万台納入記念~
1974年、世界に先駆けて発売された日立の偏光ゼーマン原子吸光光度計が、2016年2月、累計1万台の出荷を記録した。発売以来、42年の間に改良を重ね、現行製品であるZA3000シリーズは11シリーズ目を数える。
なぜ、日立の偏光ゼーマン原子吸光光度計はこれほどまでの長きにわたり愛され続けてきたのか。
その開発者である日立製作所 フェローの小泉英明氏、小泉氏とともにアプリケーションの開発に携わってきた日立ハイテクサイエンスの米谷明氏に原理と開発秘話について聞くとともに、先人たちの叡智を受け継ぎ、現在、さらなる技術開発に挑む日立ハイテクサイエンスの戸辺早人氏に話を聞いた。
株式会社日立製作所 フェロー 小泉 英明
株式会社日立ハイテクサイエンス 那珂事業所 光学設計部 戸辺 早人
株式会社日立ハイテクサイエンス 那珂事業所 光学設計部 応用技術開発グループ 米谷 明
日立の偏光ゼーマン原子吸光光度計の累計販売数1万台突破というのは、どれほどインパクトのある数字なのだろうか。そう疑問に思われる方もいるだろう。もちろん、一家に必ず1台あるような数万円程度の家電製品なら、1万台はさほどたいした数字ではない。しかし、1台数百万円はくだらない計測器となると話は別だ。しかも、計測器の中でも偏光ゼーマン原子吸光光度計が比較的高価な製品であることを考えると、その利用頻度がいかに高いかがわかるだろう。
それもそのはず、日立の偏光ゼーマン原子吸光光度計は、1974年の発売開始以来、じつにさまざまな場面で活用されてきた。いまや、世界25カ国に納入され、上・下水や土壌などの環境分析をはじめ、金属材料、化学、食品、薬品といった、各種工業分野の現場で幅広く使われている。偏光ゼーマン原子吸光光度計の技術開発に携わる日立ハイテクサイエンスの戸辺早人氏は、これまでの利用状況を次のように説明する。
「この計測器は、1970年代は高度経済成長期にもたらされた公害の原因物質である金属の特定や公害病発生のメカニズムの解明に大きく貢献しました。1980年代には、環境問題が国や地域を超えたグローバルな問題として捉えられるようになると、海水や大気、土壌中の金属元素の挙動に関する研究に役立ちました。1990年代から2000年代初頭にかけては、水道水質基準や環境基準などの規制強化を背景に計測方法の大幅な見直しが行われる中、研究から一般分析へと活用の場を大きく広げていきます。その後も、2003年の茨城県神栖市の有機ヒ素化合物の汚染問題におけるヒ素の分析、2006年に発効された欧州RoHS指令*1、2008年の食品衛生法改定に伴う鉛、カドミウムなどの分析を大きく牽引してきました」
原子吸光光度計は、水溶液中の金属元素を中心とする多くの元素について、mg/L(ppm, 1/100万からµg/L(ppb, 1/10億)というオーダーで、その濃度を測る装置である。そして、40年以上にわたる不断の技術開発により感度向上を実現してきた日立の偏光ゼーマン原子吸光光度計は、ヒ素の測定をはじめとして、水道水基準値の1/10である1 µg/Lの測定が十分可能なほど高感度化を実現している。一方で、2000年以降は、多元素を迅速に分析するといったニーズの高まりを受けて、ICP発光分析法やICP/MS法といった他の計測技術も急速に普及していった。
「それでも偏光ゼーマン原子吸光光度計が長きにわたって愛用されてきたのは、この計測器が社会の幅広い分野で使える汎用性を備えることに加え、なんといっても、高い信頼性と精確さ(真度と精度)を備える点に尽きると思います」と、戸辺氏は言う。
ではなぜ、それほどの信頼性と精確さを保ち続けることができたのか。それはこの計測器の開発の経緯と原理を知ればおのずと理解できる。まずは、開発の経緯についてひもといていこう。
日立の偏光ゼーマン原子吸光光度計の開発は、日本の高度経済成長期にもたらされた公害問題に端を発する。とりわけ、1960年代から大きな被害を出した水俣病の原因物質であるメチル水銀化合物の検出に貢献するというのが、当初の喫緊の使命だった。その開発を任されたのが、入社したばかりの小泉英明氏である。
「当時は、連日のように水俣病に関する記事が新聞に取り上げられていて、とにかくすぐに役立つ計測器をつくれ、というのが私に与えられた仕事でした。入社当時、設計図面を嬉々として描いていた私に、小沢重樹光学装置設計部長(後に日立電子株式会社社長)が開発の仕事をしてみないかと声をかけてくださったのがきっかけです。そして、保田和雄博士(当時、那珂工場副技師長)のご紹介で、カリフォルニア大学ローレンス・バークレイ研究所のDr. Tetsuo Hadeishiから、水銀アイソトープ*2のゼーマン効果*3(超微細構造)を使った計測器について学ぶことになりました。駆け出しの新米社員に、チャンスを与えてくださったことに大変感謝しています」と小泉氏は当時を振り返る。
Dr. Hadeishiは、1967年にノーベル物理学賞を受賞したDr. Hans Betheの弟子の一人で、物理学の権威である。小泉氏は手取り足取り指導を受けることになった。しかし、当時、水銀アイソトープはほとんど生産されておらず高価なことから、製品開発は行き詰まってしまった。開発中止かと思われた。
「このとき、偏光とゼーマン効果をうまく使えば、アイソトープは使わなくてもいいかも知れないとひらめいたのです。そこで自然水銀の特殊なゼーマン効果が使えるかどうか、当時、プラズマの研究に使っていた旧式のマグネトロンというマイクロ波を発生させる装置を廃品置場から拾ってきて、中のコイルを取り出し、2テスラという高い磁場を発生させる磁石を手づくりしました。その際、磁石のギャップ(隙間)が5 mmしかなかったのでどうしようかと。結局、そのわずかな隙間に原子化炉を埋め込むために、自転車のライト用の小さな豆電球を使うことにしました。この豆電球のタングステンのフィラメントに試料を溶かした水滴をつけて電流を流し、アルゴンガスを吹き付けて3,000°Cという非常に高い温度で原子蒸気を発生させることに成功したのです」と小泉氏は説明する。
原子吸光光度計は、高温に加熱することで原子蒸気にした試料に光を当て、原子が特定の波長の光を定量的に吸収する特性、すなわち原子吸収*4させる事により元素を定量分析する装置である。その際、精確な計測に欠かせないのが、「バックグラウンド補正」だ。バックグラウンドとは、その名の通り背後にあるもののことで、目的とする元素以外の元素や分子などによる光の吸収や散乱で、分析結果に影響をおよぼす要因のこと。微量な元素を測るような計測では、バックグラウンドを取り除くことが不可欠となる。そのバックグラウンド補正に、小泉氏はアイソトープではなく、自然水銀の特殊なゼーマン効果を採用したというわけだ。
「このとき運良く、複雑なゼーマン効果にもかかわらず、ある偏光成分では光が吸収されて、ある偏光成分では吸収されないという最適条件を見つけることができたのです。非常にラッキーでした」(小泉氏)
こうして、小泉氏は製品化チームとともに、世界初となる日立501型ゼーマン水銀分析計を開発。毛髪や魚肉などを前処理することなく、固体のまま直接分析できる画期的な分析装置の開発は、大きな注目を集めた。
特筆すべきなのは、ゼーマン効果の採用がこの計測器の精確さを保証している点である。その理由を理解するためには原理にまで踏み込む必要があるが、小泉氏は意外な言葉を口にする。
「実はこの計測器の原理を、私自身も100%理解できているわけではないのです。実験を通して最良の方法であることはわかっているのですが、一方で、その原理の本質を知るためには光の基本的な性質を理解する必要があります。
ご存知のように、光は一定の光速で動き回り、瞬時として留まることがありません。そして、プラスの電荷もマイナスの電荷も持たず、重さも持たない。にもかかわらず、電子などと相互に作用したり、強い重力を受けるとその軌道を曲げたりするという性質があります。つまり、光というのは非常に特殊な性質を備えているのです。こうした光の性質を理解するには、アインシュタインが唱えた一般相対性理論や天体物理学、量子力学、量子電磁力学など、多種多様な先端分野の知見に通じる必要があります」
2016年2月に初めて直接検出されたとして話題になった重力波も、まさにアインシュタインが100年前にその存在を予言した、光の本質にかかわる現象の一つである。このように、光の性質の解明はまだ途上にあって、全容はわかっていない。ただ、その中で偏光ゼーマン原子吸光光度計において、もっとも重要な原理の本質は、「光を構成する光子が基本的な自由度を二つしか持たないこと」にあると小泉氏は言う。しかも、偏光ゼーマン法は単なるバックグラウンド補正ではなく、新しい計測法の一つだと強調する。そこに、アイソトープを使った原子吸光の原理とは、根本的な違いがある。
「光子の自由度はスピンという言葉で表されますが、スピンはプラス1とマイナス1の二つの状態しか取ることができません。そして、この計測器は、1波長の光子の二つの状態の差を見ているのです。これを、零点法測定と言いますが、いわゆる天秤と同じです。二つの状態しかないわけですから、天秤のように極限に近い状態で極めて精確に測ることができるのです」と小泉氏は説明する。
偏光ゼーマン原子吸光光度計では、原子蒸気となった試料に磁場をかけ、試料の中の電子を変化させ、光と相互作用ができたり、できなくなったりする、その二つの状態を、あたかも天秤で測るかのように観測するのだという。このとき、磁場に平行な偏光成分で測定を行うと、原子吸収とバックグラウンド吸収の両方を合わせたものが検出される。一方、磁場に垂直な偏光成分で測定すると、測定波長に原子の吸収スペクトルがないため、バックグラウンド吸収のみが測定される。この差分を調べれば、測定した試料の原子吸収の値がわかり、元素の測定ができるというわけだ。
「アイソトープの役割は、同位体の原子核の質量の差により波長をシフトさせることにあります。つまり異なる波長で差分をとる2波長性なんですね。最初に開発した水銀分析計はこの2波長性の延長にあり、この方法では先ほどお話した光子のスピンの特性を十分に生かすことができません。スピンの特性をそのまま使うには、1波長で偏光により二つの状態をつくり出すことが肝要です。そうすることで、理想に近い天秤ができるのではないかと思い至りました」(小泉氏)
こうして、小泉氏らのチームは、1波長の偏光ゼーマン法を用いた、日立170-70形偏光ゼーマン原子吸光光度計を開発し、1976年に販売を開始。これにより、水銀だけでなくカドミウムや鉛、鉄など50元素以上の分析を高感度に行うことができるようになった。
長年、偏光ゼーマン原子吸光光度計のアプリケーションの開発に携わってきた日立ハイテクサイエンスの米谷明氏は、この計測器の利点を次のように補足する。
「それまで金属の計測は、試薬を加えて発色させ、分光光度計で測るのが一般的でしたが、この方法では前処理に時間がかかっていました。一方、偏光ゼーマン原子吸光光度計であれば、このような前処理を必要とせず、結果を見ることができます。しかも、測定に使うのは1波長だけなのでベースラインが安定していて精確に測れる。また、バックグランド補正の範囲が全波長域をカバーしている点も大きな特長でしょう」
なお、最高裁判所まで争われた基本特許では、日立の偏光ゼーマン原子吸光光度計が斬新な1波長性であったことが特許承認の決定的な要因となったという。また、170-70形偏光ゼーマン原子吸光光度計は、パーキンエルマー社が輸出1号機を購入し、のちに同社の博物館に世界初の偏光ゼーマン原子吸光光度計として展示されたほか、2013年には、日本分析機器工業会から「科学機器・分析機器遺産」に認定された。
さて、こうして微量金属元素の計測器として主流となった偏光ゼーマン原子吸光光度計だが、その後も先進技術・先進機能の搭載をめざして、さまざまな改良を加え、精度を上げてきた歴史がある。そうした中で、開発の苦労を小泉氏は次のように振り返る。
「とにかく「拙速でもいいから早く製品化しろ」と言われてゼーマン水銀分析計の第1号機は短期間で開発して売り出した製品でした。このため、いざ、市場に出してみると思わぬ事態が待ち受けていました。当時、他に迅速に測れる計測器がなかったため、24時間フル稼働で使われるケースが多かったんですね。すると、特殊条件下ではあっという間に劣化してボロボロになってしまう部品が見つかりました。そうした状況の中、本来なら事故に対して厳しく開発側を追及するはずの日立の検査部員が、「後始末は自分がやる。小泉はとにかく先のことだけを考えて開発に専念しろ」と言ってくれたのです。ありがたかったですね。思い出すと涙が出てきます」
なかでも、小泉氏が苦労したのが、真空紫外域の一部から近赤外域まで使える分離精度の高い偏光プリズムの製作だった。その際、種から育てた大きな人工水晶から、結晶軸が互いに直交するようなブロックを切り出して、切り出した面を極限まで研磨して貼り付けるという方法に取り組んだ。
「干渉縞ができないくらいに完璧に磨いた二つの面をくっつけると、分子同士が引き合って強固に張り付くのです。これを光学接着と言います。ただし、二つのブロックの結晶軸が直交していて熱膨張率が違うため、温度が変わると互いに剥がれるような強い力が働くのです。成層圏を飛ぶジェット機の低温の貨物室でも、高温の熱帯でも剥がれないような完璧な光学接着を実現するにはどうしたらいいのか、とても頭を悩ませました。このとき見出された秘密の方法は、いまだに踏襲されています(笑)」(小泉氏)
もう一つ苦労したのが、光の検出器である光電子増倍管の光電面のS/N比(信号対雑音比)の改善と均一化である。「これは、光子のスピンの状態を完璧な天秤状態で観るために不可欠な技術で、どの波長でもムラなく光を精度よく検出しなければなりません。この開発には、後に、ニュートリノを観測したカミオカンデの実験施設の心臓部をつくった浜松ホトニクス株式会社が献身的に協力してくれました。いまでも心より感謝しています」
その後、小泉氏は水素の原子核(陽子)のゼーマン効果を用いたMRI(磁気共鳴画像法)の開発や、MRA(磁気共鳴血管描画)および fMRI(機能的磁気共鳴描画)の開発などに携わり、さらに近赤外光を用いた光トポグラフィの開発および脳科学の研究へと歩みを進めていくことになる。
「ここでも、根本にあるのは天秤の計測原理です。将来は脳の機能に関する研究についても、その解明や人間自体の理解に、私の研究者としての原点である偏光ゼーマン原子吸光光度計が活用できるのではないかと期待しています」(小泉氏)
さて、日立の偏光ゼーマン原子吸光光度計における技術革新の大きなトピックとしては、1980 年に世界で初めて実現した、化学炎を用いて原子蒸気を発生させる「フレーム法」への偏光ゼーマン補正法の採用がある。なかでも180-80形は、フレーム法と電気加熱式の二つの原子化方法を搭載し、1台でmg/L(ppm)からµg/L(ppb)オーダーの分析を可能にした。さらに、1987年には、業界初となる4元素同時分析を実現したZ-9000形電気加熱式原子吸光光度計を開発し、上・下水分析に最適な装置として好評を博した。
「原理的には小泉フェローが開発された当時とまったく変わっていませんが、原子蒸気の生成を効率化したり、測定の自動化などにより簡便な計測を可能にしたりするなど、さまざまな改良を加えてきました。とくに私自身が苦労したのは、1990年代に水質基準の規制値が厳しくなったことを受けて、検出能力のさらなる向上に臨んだときのことです」と戸辺氏は振り返る。
水道水基準値の10 µg/Lの測定条件を満たすためには、装置の検出限界として1 µg/L以下をめざす必要がある。しかし当時、日立が光源として用いていたホロカソードランプではそれを実現することができなかったことから、より強い光を照射できるEDL(Electrodeless Discharge Lamp、無電極放電ランプ)という高輝度ランプをアメリカから購入して製品に採用した。
「ところが、EDLを付けると装置が高額になるうえ、使い勝手も非常に悪くなってしまうのです。そこで、なんとかEDLを使わないで実現できないかと開発したのが、1996年に発売したZ-5000シリーズです」(戸辺氏)
問題となったのは、一つにはホロカソードランプは波長によって必要な明るさが保てないことであった。また、測定は、µg/L(ppb)オーダーの検出が可能な黒鉛(グラファイト)管を用いた電気加熱式を用いる。この方法は、数十μLの液体試料を3,000°Cほどに加熱して原子蒸気を生成する方法であるが、黒鉛管から発生する放射光(エミッション)が分光器に入ってしまい、測定を邪魔することも課題だった。戸辺氏はこの難題を2カ月という短期間で解決し、製品化のスケジュールに間に合わせたのだという。
「黒鉛の放射分布傾向から分光器に入るエミッションの量を波長によって制御して、本当に検出したい測定元素の波長については積極的に光を取り入れることで問題を解決しました。また、実験を繰り返す中で、偶然、分光器に入り込むエミッションの原因が、分光器と反対側の原子化炉の窓にあることを突き止め、電気加熱炉の構造を変更することで、エミッションを半分に抑えることができたのです。困難な課題でしたが、時間との戦いというプレッシャーが大きな力になったように思います」と戸辺氏は言う。
その後、2004年に開発したZ-2000シリーズでは、世界で唯一となる各々の偏光成分に検出器を配置したデュアル検知方式と、水素化合物発生原子吸光法に偏光ゼーマン補正を採用。これらにより、さらなる高感度化に加えて、より安定した分析が行えるようになった。2012年には、世界初となるツインインジェクション(測定試料の注入を黒鉛管の2ヶ所に分け注入する)と省エネモード搭載のZA3000シリーズを発売した。分析線が長波長側にあり、原理的に適用可能
なバックグラウンド補正技術が限られるセシウムの測定にも偏光ゼーマン補正法の特長を活かすことができ、その精確な検出に大きく寄与することになった。
一方で、技術革新が行われてきたのは、ハード面ばかりではない。日立は、分析のビギナーに配慮した音声ガイダンス機能の搭載や各種アプリケーションの開発など、ソフトウェア開発やユーザーインターフェイスの充実にも注力してきた。長年、偏光ゼーマン原子吸光光度計のアプリケーションの開発に携わってきた米谷氏は次のように語る。
「最近は、スマートフォンを使って料理のレシピが簡単に検索できますが、同様に、お客様が分析したいサンプルを入力すれば前処理の仕方やデータの取り方などが簡単に検索できるS.I.navi(エスアイナビ)という会員制のサイトを開設しています。現在、1,500件を超えるアプリケーションがデータベース化されているんですよ。こうした取り組みも、お客様に評価されている要因の一つと言えるでしょう」
その背景にあるのは、つねに顧客の声を製品開発にフィードバックするように心がけてきた日立の姿勢にあると、米谷氏は続ける。
「開発者というのは思い入れが強く、どうしてもプロダクト志向になりがちですが、我々アプリケーションのメンバーや営業マンが小泉フェローや戸辺さんたちにお客様の声を届けて、設計に反映できるよう積極的に働きかけてきました。だからこそ、お客様から「日立の機械は使いやすいよね」と言ってもらえるのではないかと思っています。それが、結果として1万台に結びついたのだとしたら、とても嬉しいですね」
いま、食の安全や健康、地球環境問題などに対する一般の人々の意識の高まりを背景に、計測機器の役割はますます重要になっている。しかも、従来は専門家が判断していたことをある程度知識を持つ方であれば、分析値を通して客観的に評価できる時代になりつつある。そうしたなかで、偏光ゼーマン原子吸光光度計に代表される計測器の開発を手がけてきた日立は、今後、何をめざしていくのだろうか。
「今後、ますますグローバル化が進むと、地域や国の単位だけでは対応しきれない事象がさまざまに持ち上がってくるでしょう。
その社会課題の解決に貢献していくのが、私どもの務めだと考えています。それを実現するためには、装置の自動化、高感度化が欠かせません。そのための技術開発に注力することで、人々のよりよい暮らしを支えていけたらと考えています」と戸辺氏は展望を語る。
一方、小泉氏は、計測は客観的な事実を把握する手段であり、科学技術の進展に欠かせない基本的な概念であるとして、今一度、原点に立ち返って、天秤の原理、零点法測定を究めることの重要性を説く。
「私が尊敬する計測の天才は、「圧電効果」や「ラジウム」を発見し、さらには「対称性の保存原理」まで踏み込んだピエール・キュリーです。キュリー夫人とともにラジウムを発見したことで有名ですが、じつは、ピエールは計測の結果から、新たな放射性元素が存在することをすでに明らかにしていたんですね。それも、放射線の強度を文字通り天秤の分銅で正確に測るという零点法によってです。だからこそ、微量のラジウムを単離するという途方もなく困難な仕事にも前向きに取り組めたのでしょう。最近、直接観測された重力波も、天秤の原理で検測されたものであり、真理の解明に計測は欠かせません。そういう意味でも、これまで計測に関わってきた日立は、今後ますます重要な役割と使命を果たしていくことになると思います」
そして、その重責を全うする源泉は何かと問われた小泉氏は、「もっとも重要なのは情熱です」と答えた。「最後まで諦めない情熱がチームワークを生み、困難を乗り超える力になる。これからは、その情熱を育む教育にも力を注いでいきたいと考えています」と締めくくった。
編集後記
日立の偏光ゼーマン原子吸光光度計は、これまで社会のさまざまな場面で活用されてきたが、ときには思いがけない分析に役立ったことがある。犯罪捜査の証拠品やミイラの毛髪を計測したこともあると聞いて驚いた。「日本人は欧米人に比べると、毛髪の水銀濃度が高い」と小泉氏。これは、マグロなど金属を濃縮する性質を持つ魚介類を好むことに原因がある。なかでも、トロの水銀の含有量は比較的高いという。ある時、当時の副社長の毛髪を計測したところ、水銀の値が高く出てしまったが、トロが大好物だと聞いて、皆で納得したという逸話も飛び出した。
いまや脳科学者の権威として活躍されている小泉氏だが、偏光ゼーマン原子吸光光度計の開発に情熱を燃やした若き日の思い出話に花が咲き、取材時間も紙幅も大幅に超過してしまった。お三方には、大変貴重なお話をいただき、誠にありがとうございました。
(取材・文=田井中麻都佳)
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